以前こんな記事を書きました。
音色について考えてみる - 大岩祥知のブログ
美意識について語ると豪語したまま放置されていたので1年越しで今感じている『美』について語りたいと思います。
それではどうぞ!
基本的に美しいと感じるというのは
自分が今まで見てきたり経験してきたりしたものの中で1番出来の良いものをモデルとして、それに近ければ近いほど『美しい』と感じているのだと思ってます。(※1)
基準が過去にあるので美しいものが好きな人は結構保守的な人が多いのではないでしょうか?
また色んなデータを自分の中に蓄積して、それを基準に判断しているので初めてサックスの音色を聴いてもそれが美しいのか判断が出来ないんじゃないかとも思ってます。
つまり『美』の概念は全く新しいものには通用しないし、データは当人の経験なので基本的には『美』の感じ方は人それぞれなハズです。
しかし!ここまで書いてみるとあることに気づきます。先程『美』の概念は※1で書いたように仮定すると『良いもの』の判断はどうやって為されるのでしょうか?
自然的に発生するのでしょうか?
それとも他者によって与えられるのでしょうか?
自然的に発生する部分もあるとは思いますが、ほとんどは後者じゃないかと思います。
そもそもデータの集積初めの段階(赤ちゃん)で、親から『綺麗なお花だね』とか『美しい曲だね』等の何気ない会話の中から価値観を引き継いでしまいます。
(何のものさしもない自分独りではデータの振り分けが出来ないから)
その後、成長するに従い保育園や学校、会社等の社会やテレビ、インターネット等のメディアがその役割を引き継いで当人に『美』についての価値観を与えます。
そうすると、アレ?
『美』というのは結局社会やメディアの価値観に則ったものって事なのでしょうか?
その価値観はどの文化圏のものなのでしょうか?
多くの人が支持するものが美しいのでしょうか?
自分や少数の人のみが美しいと感じるものはあるのでしょうか?(ある)
皆が『美しい』というから『美しい』と思ってしまうし、データが不足しているものに対しては専門家や批評家等、自分よりも先んじている人々のものさしを基準にせざるを得なくなります。
ではどうすれば自分の美意識をみがくことが出来るのか?
それは『さらにデータを集める』事だと思います!
もっと『美しい』と感じるもの触れて、自己をアップデートしてみて下さい。
ちなみに
みんな当たり前のようにそれが出来ている例があります。
『味覚』です。
味についてはこの店が美味しい、あの店が美味しいとあまり他者の価値観が介在していないと思います。
『美味しいと評判の店に行っても普通の味だった。』なんて事はざらです。
食事は毎日の行為であり先述のデータでいえばとてつもない量の蓄積があるはずです。
そうなると『私はこの味が好き』『僕はこの味が好き』とそれぞれの『好き』が現れると思います。
自分も含めて『美しい』と思えるものにもっと触れられると良いと思います。
(注)音楽に関してのお話です😅
長文にお付き合いいただきありがとうございました。
それではまた次回の更新で。